Top > 高野神社の歴史

髙野神社発祥の地は吉井川原のオノコロ石と伝えられており、
遠い祖先は此処を磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思われます。

ご由緒

  • 当社は岡山県津山市二宮に鎮座する延喜式内社であります。今から約1500年前、安閑天皇2年(534年)に山川秀麗にして清浄な此の地を選んで社殿を営み神霊をお祀りしました。
    御神威は年と共にお栄になり、早くから美作三大社の一社として、広く官民大衆の尊信するところとなったのであります。

    また朝廷におかせられても、すでに平安時代には高い神位に位置し、延喜式内社として特別の崇敬を捧げられ、武家の世となってからも源頼朝、山名時春、毛利元就、小早川隆景等の諸将が社殿の造営や祭資の献納などにつとめ、森厳優雅な社叢宇那提森の雅名と共に、広く世にたたえられるようになりました。

  • 由緒

    そして美作国主になった森氏は社領を寄進し社殿を修造して祭祀を盛んにし、松平氏もまた年々祭資を共進し、現在の社殿は、寛文3年(1663年)津山藩の第2代藩主森長継公によってご造営されたもので、県の重要文化財に指定されています。

ご宝物

  • 木造随身立像

    木造随身立像

    国指定重要文化財
    昭和31年6月28日指定

    随身門(ずいじんもん)の両脇に侍立していた阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の一対の像です。応保二年(1162年)2月2日の胎内銘があり、銘のある随身像としては国内最古です。

  • 木造神号額

    木造神号額

    国指定重要文化財
    明治34年8月2日指定

    随身門(ずいじんもん)に掲げられていたとされる額です。寛政12年(1800)に刊行された序の『集古十種(しゅうこじっしゅ)※』によると、額の裏面には「寛弘六年癸酉正月二十八日甲申書之。参議正三位行右大弁兼美作守藤原朝臣行成」の銘文があると記されており、本額は三蹟の一人藤原行成(ふじわらのゆきなり)の筆とされています。
     
    ※集古十種…江戸時代に刊行された古美術の木版図録集(目録)。

  • 木造獅子(一)

    木造獅子(一)

    国指定重要文化財
    平成16年6月8日指定

    重量感あるつくりから平安時代も前期にさかのぼると考えられ現存最古の獅子1対の遺例であります。

  • 木造獅子(二)

    木造獅子(二)

    国指定重要文化財
    平成16年6月8日指定

    小さな獅子ではあるが、平安時代後期の作とされ、平安様式の獅子一対の違例であります。

    (一)(二)とも開口・閉口の相違を除くと、耳の向き、直毛となるたてがみ、ほぼまっすぐな体勢などがお互い同一となるのは古式な表現であるとされています。

  • 本殿

    本殿

    県指定重要文化財
    昭和58年4月8日指定

    現本殿は、寛文3年(1663年)津山藩の第2代藩主森長継公によってご造営されたもので、現釣殿も当時の遺構です。
    正面3間、側面4間、入母屋造妻入で向かい唐破風造の向拝を付す、この津山市周辺に見られる独特の様式で中山造りです。
    屋根は銅板張(もと檜皮葺)。大棟の両端には大型の鰭をもった獅子口を置いている。軒は二軒繁垂木、蛇腹支輪をもった出組、肘木、木鼻の意匠は唐様、斗栱の間には形の整った蟇股を飾るが、全体的に装飾は簡素であります。身舎の内部は正面1間通りを外陣とし、後の3間×3間を内陣とするが、その内陣の中に2間×2間の内々陣をつくっている。

  • 随身門及び覆屋

    随身門及び覆屋

    津山市指定重要文化財
    平成11年9月24日指定

    社伝によると建久2年(1191年)に源頼朝の命により建立されたとあります。
    現在残されている門はこの当時のもので、安政2年(1855年)に付設された覆屋によって往時の姿が保たれています。

  • 宇那提森

    宇那提森

    津山市指定天然記念物
    昭和48年10月20日指定

    万葉集など多くの歌に詠まれている宇那提森(うなでがもり)の跡です。その昔、この地は巨木が立ち並ぶ鬱蒼とした森でしたが、天正年間(1573年〜1593年頃)に宇喜多直家が伐採し、このムクの木だけが残ったと云われています。
    万葉集/第七巻より
    真鳥住 卯名手之神社之 菅根乎 衣尓書付 令服兒欲得
    「真鳥住む卯名手の森の管の根を衣にかきつけ著せん児もがな」

    【本殿から東へ徒歩250mの所です】